三輪龍作の世界 The World of Ryosaku Miwa


乾 由明
[美術史家 京都大学名誉教授]

    三輪の仕事は、陶芸の世界はもとより、現代の美術全体の中でも、ほとんど他に類例を見ない特異な個性を持っている。これほど徹底して自意識の深層へわけ入り、その暗部をあからさまに照射し、現実化した作家は稀である。それは世間にはしばしば伝統の家業に対する反逆と見られて来た。しかしそういう見方は、仕事の結果だけに基ずいた皮相な観察に過ぎないだろう。反逆など考えたこともないとは、彼自身の語るところだが、おそらくそうだろうと僕も思う。もしそういう意識が少しでもあれば、この作家の仕事は、もっと屈折した韜晦なものになっていたにちがいない。彼はただ、萩焼の伝統はもとより、工芸や美術のあらゆる既成の様式にとらわれることなく、あくまで自己自身の内部の声に忠実に仕事をしてきただけなのである。その点においては、自己の体質や気質をほとんど唯一のよりどころとした、率直過ぎるほど率直な作家だと言っていい。しかし彼は体質や気質を強靭なフォルムとして凝固せしめる、鋭利な思考と的確な技術を備えている。そのために仕事は、けっして安易な方向に流れていない。たとえば近年、オブジェのほかに茶碗も制作しているが、これも従来の茶陶の常識を破った、どっしりと重く大きいものである。飲みやすいとか、扱いやすいなどという安易な機能性にとらわれない、いかつい仕事だ。しかしそれにもかかわらず、その茶碗は、せまい道具の観念を超えたところで、ひとつの「作品」として、豪快に、堂々と存在している。ここには、一切の既成の美意識を否定しながら、しかも物体の実在の重みを豊かに感じさせる、この作家の鮮やかな個性が放出しているのである。
    (「三輪龍作の世界」、1978年)

作品解説

エリック・メジル
[アヴィニヨン・ランベールコレクション美術館館長]
  1. 茶陶、白萩釉の彫陶作品シリーズ

    「雪が溶けるとき、白さは何処へ行くのか」と、詩情豊かに問いかけたのは天才シェークスピアであった。十二代三輪休雪は、最もシンプルで機能をも有する作品群と、用途の限定されていない彫陶シリーズを通じて、その問いに答えている。かの英国人劇作家が、この世で最も霊妙な白という色を、冬空から舞い落ちる小片になぞらえて我々を感動させる一方、休雪は、ギリシャ神話における鍛冶の神ヴァルカン流に、炎を使って、白を表現する。雪は、窯と土と釉薬を用い、萩の名を知らしめた萩焼の技法によって造られるのである。重く、厚く、豪華でありながら、湖面にふわりと落ちた雪のような、想像上の動物の足跡のような軽やかさを思わせる茶碗。今も茶の湯で用いられる水指。春風の中を舞うがごとき軽快さで表現されているが故に、目には見えない花びらで飾られたような、繊細この上ない花生。『白嶺』『明』(本図録No.18)『雪中修』(本図録No.16)など、連想を誘う題を与えられた彫陶作品。全てが、実用的陶器や陶芸に対する日本の伝統的美意識の枠を突き抜けている。これらの作品は、皆、休雪が見事に名付けた通り『彫陶』たらんとしている。  「私が茶碗を造るとき、ただ茶を飲むための器を造るのではない。茶の湯を通して、茶を服する者に、創作家としての私の渇望を最も深いところで感じてもらいたい。茶陶とは単なるフォルムではなく、心の声でもあるのだ」と休雪は言う。  茶の湯では、客は、茶を飲む前に、茶碗の一番美しい面から飲むことを遠慮して、飲み口を探しながら、ゆっくりと茶碗を回す。休雪の白萩釉作品も、時に、透き通った紫色や、青みがかった透明な灰色、麦わらのような黄色みを微かに含んでおり、一瞬でその美しさを見せつけるものではない。茶の湯の茶碗と同じように、水指や花生の周りを回ったり、仏陀の像に近づいたり、遠ざかったりしながら、その巧みな均衡や遠近法の効果を堪能したい。ミニアチュアの雪景色と、その中に一人たたずむとても小さな仏陀(しばしば休雪の自画像である)との距離感は、生と創造を前にした休雪の孤独と重なるのである。

  2. 伝統から芸術へ、制作の苦悩から、明朗な創作の境地へ

    休雪は、絶えず変貌する自身の作品を、誰よりも明晰に分析する。休雪の創作は、陰と陽のごとく、2つに分類できよう。前述の白萩釉作品によって表現される静けさの世界。そして、それ以外のほぼ全ての作品で表現される激しさの世界。休雪は言う。「私の作品の素材、製作技法は伝統的なものである。しかし、古典のそれと別なものであるように見えるならば、それは思考と感性が昔とは異なるからだ。伝統の恩恵を受けて今の自分がある。そして、最初からあった伝統と言うものは、歴史の何処にも無い。誰かがその時代に始めて作り出したものである。その連鎖を振り返って見て、価値あるものを伝統と言う尊称で呼ぶのである。従って、伝統の本質は革新である。故に、創作芸術における伝統は守るものではなく創り出すものである」  日本の歴史に深く根付いた伝統的な世界の出身者で、自らの創作について、休雪ほど、知性をもって明確に捉えることのできる芸術家は稀であろう。幾度かの語らいの中で、休雪は、仏教が作品の中核に強く根を降ろしているのはもちろんだが、長い間、西洋近代絵画の巨匠たちからも影響を受けてきたと語り、「生きている中で神を感じ、目に見えるものを超えて不可視の世界を追い求めた芸術家たちとの深いつながり」について述べた。世界の不条理と戯れたゴヤに始まり、痛めつけられ呪われた画家ゴッホ、狂気を叫ぶムンク、暴力性を表現主義という手段で爆発させ、抽象絵画のカタルシスによってようやく解放されたスーチンまで、萩焼の巨匠は、十二代休雪になる以前、東京で学生だった頃に、全て学んだのである。  黒白の苦悩する半身像シリーズについて、休雪は打ち明ける。「作品を造り始めた頃、心の中に悲しみや郷愁があった。全ての苦悩を払い除けることができず、常に苦しみながらの造形であった。エロティックで女性的なフォルムを作り上げることで、意識の中に、生命の均衡と心の平静を保つことができるようになった。私は、命と創造の関係について苛烈な意識を持っているので、様々な面を抱えているのである」

  3. エロスとタナトスの融合

    文学における三島由紀夫、あるいは映画における大島渚のように、自身の芸術とエロスと死との独自な関係について誰よりも深く分析するため、創造と思索に歳月を捧げてきた休雪の言葉を、さらに引用しよう。「日本の焼き物は、禅の影響でワビ・サビという禁欲的美意識で語られる事が多い。純粋芸術に於いてエロスは氾濫している。陶の世界にだけエロスが無い方が不健全である。私は日本の焼き物の世界では誰も積極的には触れようとしなかったエロスをやろうと思った。  私にとってはエロスとは命を生む肉体の輝きである。それを日本の伝統的美意識・空間の中で生かそうと思った。エロスをやる為には、その対局にある苦悩や悲しみ、あるいは、死について思考を深めなければならない。なぜならばエロスと死はコインの表と裏のように切り離すことは出来ないからだ。そして誰も逃れる事の出来ない死を恐れるよりも受容する姿勢を選んだ。あの絶対不滅の神や仏も一度素材により造形にされ、眼前に現されると、長い時間的スパンの中ではその物質としての造形は必ず破壊され、砂塵の運命をたどる。ならば、この虫けらのような一介の人間に過ぎない己が死んで、地上から消滅しても自然なことであり何も不思議ではない。死へのテーマは自分の死に対して説得する為の行為でもあった」

  4. 窯の中で燃え上がる炎によって生まれ変わる陶

    休雪は説明する。「『陶彫』は、陶の彫刻であり主体は彫刻である。私は彫刻的要素を取り入れても美意識としての決定権は陶に与えたい。つまり『陶彫』でなく『彫陶』でなくてはならない。その為に私はどれだけ土に釉薬に炎に心を配っていることか」  作品ごとに、休雪は、益々『炎を操る』ようになる。先祖伝来の、そしてシャーマン的ともいえる窯の知識をもって、彼より前には誰もなしえなかった方法で、より複雑に、より革新的に、素材を使いこなしてゆく。展覧会の最後に展示される作品は、全てが有機的である。激しく沸き立つ脳や心臓、勃起する男性性器や女性性器の奥深くに在る子宮、生温かくぬめりを帯た腸や臓物など、人体の内部を思わせるフォルムである。それらのフォルムが、先史時代の化石やアンモナイトのごとく原始的で、起こり立ち渦巻く『煙による黒』の塊と絡み合い、結合している。これらの彫陶は、休雪が、今や、焼き物を、第二の皮膚のようにも、体の粘膜のようにも、完全な鉱物のようにも(石、岩、大理石…)生み出す術を持つことを証明している。また、万物は神の摂理と自然界の法則に従って崩壊と生成を繰り返すという事実を表現するために、休雪が、炎の芸術である陶をも新しく生まれ変わらせたことの証でもある。  「人間界だけの行為の彫刻或は純粋芸術に対して、陶芸は、己の思いを造形化すると言う彫刻と同じ次元を経たものを、さらにその後それを窯の中にいれる事によって、炎との熾烈な葛藤のドラマが始まり、大自然の法則と合体合一という神秘な結末に達する。故に、人為の次元だけの彫刻に対して、ある意味では、焼き物になることは、人智を超えた秘事であるとも言える。そうして生まれた陶独自の美意識をまとって私の作品は成り立っている。それが私の陶芸作品である」 (翻訳:宇都宮彰子)